資本論読書について(ヤフーブログから移転。)

「資本論」の読書について

2011/7/8(金) 午後 3:04

各位
毎日、蒸し暑い日々が続いていますが、如何お過ごしでしょうか。
さて、
前回、「資本論」についての読後感をメールしたいとしていましたが、なかなかできなくて気がかり
でした。しかし最近、ある文庫本(マルクスの「クーゲルマンへの手紙」)を読んでいて、マルクスが
1867年11月30日に書いた手紙の中に、推奨する資本論の諸章についての箇所が見つかった
ので、それをもとにして、感想の代わりとしてブログに掲載いたします。 
実は、この文庫本は、かのレーニンの編集(序文つき)になるものです。
そこでは、マルクスが、自著「資本論」について、クーゲルマンに宛てた手紙の中で、奥さんに教え
てあげてほしい、として、最初に読むことを薦めている諸章は、「労働日」に関する諸章、「協業、
分業および機械」に関する諸章、次に「原始的蓄積」の諸章である、と書かれています。
(15・文庫p61)
以下は、的場昭弘氏の「超訳『資本論』」や広松渉氏の「今こそマルクスを読み返す」なども参照し
ています。
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第8章「労働日」では、搾取に対する法的制限のない英国産業における労働日の実態暴露、
たとえば生産現場における児童労働や婦人労働の実態、過労の実態などが克明に暴露
されています。

また、第11章協業や第12章分業とマニュファクチュア第13章機械装置と大工業においては、
さらなる労働の強化が、児童労働による平均寿命の短縮、成人労働者の作業環境悪化等、病弱化
による短命化をもたらし、ついには、国家による規制(=工場法)を成立させた経緯などが、英国の
議会報告書など膨大な一次資料に基づいて実証されています。

とくに今日の失業問題は、相対的過剰人口(=産業予備軍)として、資本主義的生産社会の存続の
ための必要な ”条件”として描かれています。すなわち、資本主義的な生産を前提にする社会に
おいては、解決不能な次第です。

また、「原始的蓄積」の諸章、とくに第24章の「いわゆる本源的蓄積」においては、資本の運動
(=論理)として、農村住民からの土地収奪と国家との結託による、生産手段から切り離された
”自由な”「労働者」(=労働力商品所持者)の強制的な創造が、一方の生産手段の私的所有者
としての資本家の創出とともに、ダイナミックな資本主義的生産関係の創生期・新たな奴隷的
搾取関係の歴史的創生過程として描かれています。

かくして、「資本と賃労働」の関係は、メダルの表裏の関係にあり、そして資本主義的生産諸関係の
発展につれて、資本の下への労働の実質的包摂(資本制的総過程における労働者階級の実質的
包摂)が完遂され、かくして自由平等なブルジョア社会の外観にもかかわらず、否、それらに媒介
された実質的な「賃金奴隷制」の実態が克明に暴露されている次第です。
さらには、ブルジョア社会の根底的矛盾・問題の本質は、生産手段の私有に基づく
あくなき私利私益追求による盲目的な競争(=資本制的生産)社会にあり、それに基づく必然的な
労働者階級の搾取(=剰余価値の生産・搾取)にある事を論証しています。

私は、今日の貧困問題(非正規社員やワーキングプア問題含む)や南北格差問題、地球規模に
おける環境破壊
や軍事的・浪費的価値破壊などをもたらすグローバル資本主義、原発事故に象徴される国家独占
資本主義の独占的私的利益追求に見る体制的な”本質”を見抜く鍵、そしてその批判によって、
われわれの将来の展望を得るところの鍵は、階級闘争を説き、否定の否定を説いている、この
「資本論」の研究・精読によって得られると考えています。
マルクスが一読を奨めたこれらの諸章こそ、資本主義的生産諸関係の壮大な歴史ドラマであり、
現代社会(=人類)の来し方・来歴を示すのにあまりあるものです。

いずれにしても、今日の地球規模で展開されるグローバルな資本主義的ブルジョア社会の問題
や矛盾、そして、その現象としての地域紛争や環境破壊、軍事に象徴される浪費的価値破壊など、
そして、これら資本主義社会の特殊歴史的性格等についての理論的把握においては、今日、
ますます「資本論」研究の重要性が増していると考える次第です。

以上、マルクスの「クーゲルマンへの手紙」に基づく「資本論」の簡単な紹介・感想ですが、グロー
バルな国家独占資本主義社会の末期的な現代(見方を変えれば、宇宙船地球号のグローバル
な国際的共同生産社会=”否定の否定”の直前)に生きるわれわれは、一度は、その来し方・来歴
をしっかり認識するという意味からも、この古典的な資本主義社会を批判的に描いた「資本論」を
是非とも全巻、通読・研究したいものですね。 (私はただいま第2巻を読書中です。)

取り急ぎ、「資本論」第一巻の感想まで。

「科学的社会主義」講座 その(2)『賃金・価格および利潤』

「科学的社会主義」講座 その(2)
ここでは、マルクスの『賃金・価格および利潤』(1865.6.20&6.27における国際労働者協会の講演)から経済学の基礎概念、特に価値・剰余価値並びに賃金または賃金制度(資本制的生産)についてマルクスの概念規定を見て行きます。
これは、「資本論」(1867年)の内容を「平易な形で先取りする」ものです。
(参考文献は、岩波文庫『賃金・価格および利潤』(昭和40年9.20第31刷)

(1)「6 価値と労働」における価値概念
.泪襯スの問題提起。
「第一の問題は、商品の価値とは何か?それは、どうして決定されるか?という事である。」(p46)
⊇商品の交換価値(価値)は、これらの物の社会的機能に他ならず、自然的諸性質とは全く何の関係もないので、我々はまず、すべての商品の共通な社会的実態は何であるか?と尋ねなければならない。それは労働である。」(※労働価値説)
商品生産の為には、一定量の労働が必要であるが、それは単なる労働ではなく、社会的労働である。ある品物を自分自身の為に生産する人は、生産物は作るが商品は作らない。
商品を生産する為には、人は、何らかの社会的欲求を充たす品物を生産しなければならないだけでなく、彼の労働そのものが、社会によって支出される総労働量の一部分を占めていなければならない。それは、社会内の分業に従属していなければならないのであって、商品が価値を持つのは、それが社会的労働の結晶だからであり、その価値の大きさは、それに含まれている社会的実態の量的大小、即ちそれの生産に必要な労働の相対的分量(労働時間)に依存している。だから、諸商品(w)の相対的価値は、それらに費やされた・実現された・固定された・労働のそれぞれの分量によって決定される。同一の労働時間内に生産されうる諸商品の相関的諸分量は相等しい。(※労働に対する報酬(賃金V)と労働量(V+m)とは全く別ものだという事に注意する事!」(※mは剰余価値)
(商品の価値構成・・・不変資本、可変資本、剰余価値)
「一商品(w)の交換価値を計算するには、それに費やされた労働量(V+m)に加えて、その商品の原料に予め費やされた労働量(c1)と労働過程で援用された用具、道具、機械並びに建物に用いられた労働(c2)、を以てしなければならない。」(p50〜51)
(即ち、W=C+V+m、ここでC=c1+c2)(※Cは不変資本)
さらに、1商品の生産に必要な労働量は、使用される労働の生産諸力の変動によって絶えず変動する。労働の生産諸力が大であればあるほど、一定時間内の生産物がより多く生産される。(つまり、1商品に含まれる価値が低下し価格は安くなる。)
げ然覆蓮価値の貨幣的表現に他ならない。

(2)「七 労働力」概念について(※労働と労働力の違いに注意)
 嵒當未砲いΠ嫐での「労働の価値」なるものは存在しない。」
「労働者が(資本家に)売るのは、彼の「労働」そのものではなくて、彼の「労働力」であり、この労働力の一時的な自由処分(権)を彼が資本家に譲渡するのである。」(p58)
∀働力の価値とは何であるか?(p60)
「他の商品価値と同様に、その生産に必要な労働の分量によって決定される。」即ち、「労働力の価値は、労働力を生産し、啓発し、維持し、永続させるに要する必需品によって決定される。」(p61)

(3)「八 剰余価値の生産」(※資本制的生産または賃金制度の基礎)
資本家は、労働者の労働力を買ってその対価(価値)を支払う事によって、買った商品を消費または使用する権利を得る。労働者の労働力は、彼が働かされる事によって消費または使用される。即ち、労働力の価値は、それを維持または再生産するに必要な労働量によって決定されるが、しかしその使用は、労働者の活力と体力によって制限されるだけである。従って、例えば「紡績工」がその労働力を日々再生産する為に日々3シリングの価値を再生産しなければならないとするなら、彼は、1日に6時間働く事によってそうするであろう。ところが「資本家」は、紡績工の労働力の一日分の価値を支払う事によって、その労働力をまる一日使用する権利を得たのである。だから彼は、紡績工を例えば一日に12時間働かせるであろう。従って紡績工は、彼の賃金、即ち彼の労働力の価値を補填するに必要な6時間を超えて、さらに6時間働かねばならないであろう。この超過分を私は、「剰余労働時間」と名付ける。この「剰余労働」は、「剰余価値」及び「剰余生産物」において自らを実現する。彼(紡績工)は、既にその労働力を資本家に売っているのだから、彼が生産した生産物の全価値は、・・・資本家のものとなる。だから資本家は、3シリングを投下する事によって6シリングの価値を実現する。そしてその半分は再び賃金を支払う為に支出されるが、残り半分は、資本家によって何らの対価も支払われない剰余生産物を形成する。(※)資本と労働との間のこの種の交換こそは、資本制的生産または賃金制度の基礎であり、そしてそれは、労働者としての労働者及び資本家としての資本家の再生産を引き続き生じさせるものである。(p64)
(※ 1労働日=必要労働時間(v)+剰余労働時間(m))

(4)「九 労働の価値」について再び。(p65)
『労働の価値または価格』は、実は、労働力の価値(労働力の維持に必要な諸商品の価値)に他ならない。しかし、労働者は、自分の労働が遂行された後に賃金を受け取るのであり、しかも彼は、自分が資本家に与えるのは自分の労働だという事を知っているので、彼の労働力の価値又は価格は、(彼にとっては)彼の労働そのものの価格又は価値のように見える。つまり、このことから「二重の結果」が生ずる。即ち、
第一に労働力の価値または価格は、労働そのものの価格又は価値のような外観を帯びる事。第二に労働者の一日の労働の一部分だけが支払われて他の部分は不払いであるのに、あたかも総労働が支払労働であるかのように見える事。
この間違った外観は、賃労働を、他の歴史的な労働形態から区別づける。賃金制度の基礎の上では、不払い労働でさえ支払労働のように見える。しかし、「奴隷の場合」には、彼の労働のうち、支払われた部分(与えられた衣食住等)でさえ不払いのように見えるのである。例えばまた、「隷農の場合」、3日間は、彼自身の耕地で自分自身の為に働き、その次の3日間は、主人の領地で強制的・無償の労働をした。この場合には、労働のうち支払われた部分と不払いの部分とが一目瞭然と分かたれている。

(5)「十 利潤は商品を価値どおりに売る事によって得られる。」(※利潤について)
一商品の価値(C+V+M)は、その商品に含まれている総労働量によって決定される。
(Cは不変資本)ところが、その労働量の一部分は、賃金の形態で対価を支払われた価値(支払労働V)に実現されており、他の一部分は、何らの対価も支払われなかった価値(不払労働M)に実現されている。だから資本家は、商品をその価値(C+V+M)で(総労働量の結晶として)売ることにより、必然的に利潤を得て売るはずである。だから、正常的且つ平均的な利潤は、諸商品をその現実の価値以上にではなく、その現実の価値(C+V+M)で売る事によって得られるのである。

(6)「十一 剰余価値が分裂する種々の部分」(※剰余価値の分配について)
剰余価値M、即ち商品の総価値のうち労働者の剰余労働が実現されている部分は、その全部が企業資本家によって収得されるわけではない。それは、|麓腓紡个垢訝和紂↓金貸資本家に対する利子、4覿隼駛棆箸忙弔觧唆藩潤又は商業利潤に分けられる。
注意すべきことは、地代、利子、及び産業利潤は、商品の剰余価値の種々の部分に対する種々の名称に他ならないのであり、それらは等しくこの源泉(剰余価値)から、しかもこの源泉だけから生ずるのである、という事。(p70)
(要点)
企業資本家が剰余価値のどれだけの部分を自分の手に留めうるかはとにかく、その剰余価値を直接に労働者から搾取するのは企業資本家である。従って企業資本家と賃労働者との間のこの関係こそは、賃金制度の全体及び現存生産制度の軸点であるという事です。
「もう一つの結論」
商品価値(w)のうち、原料や機械の価値(c)は、決して何らの所得(付加価値)にもならないで、ただ、資本を補填するにすぎない。そして、商品価値(w)のうち、所得を形成する−あるいは賃金(v)・利潤(m)・地代(m)・利子(m)の形態で消費されうる他の部分が、それらの価値によって構成されるというのは間違いであるという事です。
(ここで、w=c+v+m。c:不変資本、v:可変資本、m:剰余価値)

「十二 利潤・賃金及び物価の一般的関係」(略)

(7)「十三 賃金を値上げし又はその値下げを阻止しようとする企ての主要な場合」
「労働日を巡る労資対立の要点」
]働日自身は、不変の限界を持っている訳ではない。資本の不変的傾向は、肉体的に可能な最大限まで労働日を延長する事にある。なぜなら剰余労働(利潤)がそれだけ増加するから。∀働者がその労働力を売るのは、それを維持する為であって、それを破壊する為ではない。労働者(人間)は機械と異なり、仕事の単なる数字的加算によって見られるよりも大きな比率で衰亡する。H爐蕕標準労働日を強要しえない場合、賃上げによって過重労働を阻止しようとする企てにおいては、彼ら自身及び彼らの種族に対する義務を果たすにすぎない。彼等は資本の暴虐な横暴を制止するにすぎない。時間あってこそ人間は発達する。勝手に出来る自由時間のない人間、睡眠・食事などによる単なる生理的な中断は別として、全生涯を資本家の為の労働によって奪われる人間は、牛馬よりも哀れなものである。・・・近代産業の全歴史の示すところでは、資本は、もし阻止されなければ、全労働者階級をこの極度な頽廃状態に陥れる為に遮二無二の働きをするであろう。
賃上げ闘争は、・・・生産額・労働の生産諸力・労働の価値・搾取労働の長さ又は強度・需要供給の動揺に依存し産業循環の種々の段階に照応する市場価格の動揺の先行する諸変動の必然的結果であり、一言でいえば、資本の先行の行動に対する反動である。もし彼が、資本家の意志・命令を永久的な経済法則として受け取って満足するならば、彼は、奴隷の安全さを得ることなしに、奴隷の全窮乏を共にすることとなるであろう。

(8)「十四 資本と労働との闘争とその結果」
最後におこる問題は、「資本と労働との闘争とその結果」についてである。
〕潤については、その最小限を決定する法則は存在しない。なぜか?
我々は、賃金の最小限は確定しうるが、その最大限は確定しえないからである。
我々の明言しうるところは、ただ、労働日の限界が与えられている場合には、利潤の最大限は賃金の生理的最小限に照応するという事、及び、賃金が与えられている場合には、利潤の最大限は労働者の体力と両立しうるような労働日の延長に照応するという事、これだけである。だから利潤の最大限は、賃金の生理的最小限及び労働日の生理的最大限によって局限されている。その現実の程度の確定は、資本と労働との間の絶えざる闘争によってのみ定まるのであって、資本家は常に賃金をその生理的最小限に引き下げて労働日をその生理的最大限に拡大しようとしており、他方、労働者は常にその反対の方向に圧迫しているわけである。事態は、闘争者たちのそれぞれの力の問題に帰着する。(p88)
▲ぅリスにおける労働日の制限の事例。それは法律的干渉によらないでは決して確定されなかった。外部からの労働者の絶えざる圧迫なしには、この干渉は決して行われなかった。一般的な政治的行動の必要自体、単なる経済的行動では資本の方が強いという事を証明している。
O働(力)の価値の限界については、その現実の決定は常に需要供給に依存する。
資本家たちは、労働の生産力を増す事(生産規模拡大、機械の応用、科学的方法の導入等)によって労働の需要を減少させてきた。この発展は、他方では、熟練労働を簡単化し、その価値を減少させた。
ざ畭綮唆箸糧展そのものは、益々労働者に不利で資本家に有利な状態を生じさせる。資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均水準を低める事、労働(力)の価値を多かれ少なかれその最小限に圧下することである。しかし、この制度における事態の傾向はこうだとしても、なお、労働者階級は資本の侵略に対する彼等の抗争を断念し、その時々の機会を彼らの状態改善に利用する企てを放棄すべきだ、という事にはならない。

標準賃金獲得のための彼らの闘争は、賃金制度全体と不可分な事象だという事、賃上げの為の彼らの努力は、99%、与えられた労働の価値を維持しようとする努力に他ならない。また、労賃について資本家と争う必要は、自分を商品として売らねばならないという彼らの状態に内在するものだという事は、既に明らかにした。もし彼らが、資本との日常闘争において卑怯にも退却するならば、彼らは必ずや、何らかのより大きな運動を起こすための彼ら自身の能力を失うであろう。それと同時に、また賃金制度に含まれている一般的隷属状態を全く度外視して、労働者階級がこれらの日常闘争の究極の効果を誇張して考えてはならない。忘れてならない事は、彼らが闘っているのは結果とであってこの結果の原因とではないという事、彼らは緩和剤を用いているのであって病気を治しているのではないという事、これである。
・・・彼らが理解しなければならないのは、現在の制度は、彼らに窮乏を押し付けるにも関わらず、それと同時に、社会の経済的改造に必要な物質的諸条件及び社会的諸形態をも生ぜしめるという事である。
シ誅澄H爐蕕蓮◆惴正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を!』という保守的な標語の代わりに『賃金制度の廃止!』という革命的なスローガンを彼らの旗に書き記さねばならない。」

「まとめ:マルクスの決議案」
第一。賃金率の一般的騰貴は、一般的利潤率の低落を生ずるであろうが、大体において、 諸商品の価格には影響しない。
第二。資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均標準を高めないで低める。
第三。労働組合は、資本の侵略に対する抗争の中心としては、立派に作用する。
しかし、その力の使用が宜しきをえなければ、部分的に失敗する。それは、現行制度の結果に対するゲリラ戦に専念して、それと同時に現行制度を変化させようとしないならば、その組織された力を「労働者階級の究極的解放即ち賃金制度の究極的廃止」の為のテコとして使用しないならば、一般的に失敗する。(p93)
以上。

「科学的社会主義」講座 その(1)(唯物史観の定式)

「科学的社会主義」講座 その(1)
『経済学批判』序言 (1859年) (ページは「国民文庫」版による)
(唯物史観の定式)
・(p15)私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であ った。

 (1844年「独仏年誌」に掲載の「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判 序説」)。
  研究の到達した結果は次のことであった。即ち、
・法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも   理解できるものではなく、むしろ物質的な生活諸関係に根ざしているものであって、これらの生活  諸関係の総体をヘーゲルは、18世紀のイギリス人及びフランス人の先例にならって、「市民社会」と  いう名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求められ なければならない、ということであった。
・パリで始めた経済学の研究をブリュッセルで続けた。私にとって明らかとなった、・・・私の研究の導き  の糸として役立った一般的結論は、簡単には次のように定式化することができる。
・「人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、 即ち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係に入る。これらの生産諸関係 の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に1つの法律的及び政  治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的意識諸形態が対応する。」
・物質的生活の生産様式が、社会的、政治的及び精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼ら の存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。
・(p16)社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してき  た既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するように  なる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。その時に社会革命の時  期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激に 変革される。
・このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に 確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それを闘い抜く場面である法律的な、政治的な、宗教 的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単に言えばイデオロギー的諸形態とを常に区別しなければ ならない。
・ある個人が自分自身を何と考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期を その時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾か ら、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。
・1つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、決して没落するもの ではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化  され終わるまでは、決して古いものにとって代わることはない。
・それだから、人間は常に、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、詳しく考察し  てみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくとも  生まれつつある場合にだけ発生することが、常に見られるであろうからだ。
・大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的及び近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成の  相次ぐ諸時期としてあげることができる。(※)
 (※アジア的生産様式とは、原始共産制のこと。また近代ブルジョア的生産様式とは、近代資本主義 的生産様式のことです。マルクスは、この時点ではまだ資本主義という言葉を使っていない。)
・(p17)ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、 個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味であ   る。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のため の物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史は終わりを告げる  のである。(p17)
※ 「エンゲルスの書評」(p253)「カール・マルクス『経済学批判』参照・抜粋
 (マルクスの「経済学研究」の成果として次の『賃金・価格および利潤』が挙げられる。)

『フォイエルバッハに関するテーゼ』

 『フォイエルバッハに関するテーゼ』
第1テーゼ
フォイエルバッハを含めたこれまでのすべての唯物論の主な欠陥は、対象・現実性・感性がただ客体あるいは直感の形式のもとでだけとらえられていて、人間の感性的な活動・実践として、主体的にとらえられていないことにある。従って、活動的な側面は、唯物論とは反対に、観念論によって展開されることになった。しかしこれはただ抽象的におこなわれたにすぎない。なぜなら、観念論はもちろん本来の意味での現実的な、感性的な活動を知らないからである。フォイエルバッハは、思想的客体とは現実に区別される、感性的な客体を求めているのだが、しかし、人間の活動そのものを対象的な活動としてはとらえない。だから彼は、『キリスト教の本質』の中で、理論的な態度だけを真に人間的態度と見なし、実践はその卑しい、ユダヤ人的な現象形態においてのみとらえられ、固定されている。従って彼は、「革命的」な、実践的・批判的な活動の意義を理解しない。
第2テーゼ
対象的真理が人間の思考に達するかどうかという問題は、何ら理論の問題ではなく、実践の問題である。実践において、人間はその思考の真理を、即ち彼の思考の現実性と力とを、その此岸性を証明しなければならない。実践から切り離された思考が現実的であるか非現実的であるかという争いは、純然たるスコラ的な問題である。
第3テーゼ
人間は環境と教育の所産であり、従って人間の変化は環境の相違と教育の変化との所産であるという唯物論的学説は、まさに人間が環境を変えるのであり、また教育者自身が教育されなければならない、ということをを忘れている。従ってこの学説は、必然的に、社会を二つの部分に分け、そのうちの一つは社会よりも優越しているとするようになる。 (例えばロバート・オーウェンの場合)
環境の変更と、人間の活動との合致は、ただ変革的実践としてのみ、把握されかつ合理的に理解される。
第4テーゼ
フォイエルバッハは、宗教的自己疎外の事実、すなわち宗教的、空想的世界と現実の世界とへ二重化されているという事実から出発する。彼の仕事は、宗教的な世界をその現世的な基礎に解消させることにある。だが、彼はこの仕事が成し遂げられてからも、なお主な事がし残されているということを見落としている。というのは、現世的な基礎が自分自身から浮き上がって、一つの独立の王国を雲の中に確立するという事実は、まさにこの現世的基礎の自己分裂と自己矛盾とからのみ説明されなければならないからである。従ってこの現世的な基礎がまず矛盾として理解されなければならないし、次にこの矛盾をとりのぞくことによって実践的に変革されなければならない。だから、例えば、地上の家族が聖家族の秘密であることが発見されたら、今度は地上家族そのものが理論的に批判されかつ実践的に変革されねばならない。
第5テーゼ
フォイエルバッハは、抽象的な思考に満足せず、感性的な直感に訴える。しかし、彼は感性を実践的活動、即ち人間の感性的活動としてとらえない。
第6テーゼ
フォイエルバッハは、宗教の本質を人間の本質に解消する。しかし、人間的本質は、個々の個人に内在する抽象物ではない。人間的本質とは、現実には、社会的諸関係の総体である。フォイエルバッハは、こうした現実的な本質にたちいらないから、
(1).歴史の過程を無視して、宗教的心情をそれだけで固定し、そして抽象的な−孤立した−人間的個体を前 提せざるをえなくなる。
(2)だから彼の場合、人間の本質は、ただ「類」として、即ち、多くの個人を単に自然的に結びつける、内的 な、無言の一般性としてしかとらえられない。
第7テーゼ
従ってフォイエルバッハは、「宗教的心情」そのものが1つの社会的産物であるということ、彼が分析する抽象的個人が現実には特定の社会形態に属しているということを見ない。
第8テーゼ
すべての社会的生活は、本質的に実践的である。理論を神秘主義に誘い込むあらゆる神秘は、その合理的解決を人間の実践およびこの実践の把握のうちに見いだす。
第9テーゼ
直感的な唯物論、すなわち、感性を実践的な活動としてとらえない唯物論が到達する最高の地点は、「市民社会」における個々の個人の直感(Anschauung)である。
第10テーゼ
古い唯物論の立場は「市民」社会であり、新しい唯物論の立場は、人間的社会あるいは社会化された人類(vergesellschftete Menschheit)である。
第11テーゼ
哲学者たちは、世界を様々に解釈した(interpretiert)にすぎない。大切なことはしかしそれを変革する(verandern)ことである。
 

『資本論』学習会(2012.9.20〜2014.7.21)総索引(アメブロ在中)

『資本論』学習会(2012.9.20〜2014.7.21)総索引
・第3巻読書録のブログ目次(Yahooから移転:2019.6.18)
(序)資本論第3巻学習会(レポート1)・全3巻の構成と第1・2巻の復習
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482758037.html
ここではまず最初に、『資本論』全3巻の目次を掲げる。
(マルクスの自筆経済表貼付・1863.7.6エンゲルス宛「資本論」に関する手紙p129参照)
(1)『資本論』全3巻を3年間で読み切る学習会(レポート2)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482753918.html
(2)第1章:費用価格と利潤
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482734385.html
(3)第2章:利潤率
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482720357.html
(4)第3章:利潤率の剰余価値率に対する関係
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482716875.html
(5)第4章:利潤率に対する回転の影響
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482714863.html
(6)第5章:不変資本の使用における節約
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482712657.html
(7・8)第6章:価格変動の影響/第7章 補遺
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482711442.html
第2篇・利潤の平均利潤への転化 
(9)第8章:生産部門の相違による資本構成の相違とそれにもとづく利潤率の相違
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482658427.html
(10)補論1、『「資本論」に関する手紙』から 
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482644822.html
(11)補論2、『「資本論」に関する手紙』から(続き)◆淵泪襯スの経済表貼付)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482642190.html
第2篇利潤の平均利潤への転化 
(12)第9章平均利潤率の形成と商品価値の生産価格への転化https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482634446.html
(13)第10章ゞチ茲砲茲覦貳姪利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482630820.html
(14)第10章競争による一般的利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482627580.html
(15)第10章6チ茲砲茲覦貳姪利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482621197.html
(16)第11章 生産価格に対する労賃の一般的変動の影響
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482619032.html
(17) 第12章 補遺 (資本の物神性の昂進)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482618017.html
(18)第3篇 利潤率の傾向的低下の法則/第13章 この法則そのもの
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482609810.html
(19)第14章 反対に作用する諸原因
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482607768.html
(20)第15章 この法則の内的矛盾の展開 その
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482606039.html
(21)第15章・第3節・人口の過剰を伴う資本の過剰
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482604443.html
(22)第4篇 商品資本と貨幣資本との商品取引資本と貨幣取引資本とへの転化
(商人資本)/第16章 商品取引資本
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482597267.html
(23)第17章 商業利潤 (その1)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482596202.html
(24)第17章 商業利潤 (その2)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482595883.html
(25)第17章 商業利潤 (その3)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482595358.html
(26)学習会資料・商業利潤全体の概要
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482594754.html
(27)第18章、商人資本の回転。価格(その1)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482592302.html
(28)第18章、商人資本の回転。価格(その2)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482591148.html
(29)第19章、貨幣取引資本
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482586730.html
(30)第20章、商人資本に関する歴史的考察(その1)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482586047.html
(31)第20章、商人資本に関する歴史的考察(その2)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482585601.html
(32)第5篇 利子と企業者利得とへの利潤の分裂
第21章、利子生み資本(その1)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481926493.html
(33)第21章、利子生み資本 (その2)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482604443.html
(34)第22章、利潤の分割 利子率 利子率の「自然的」な率
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482597267.html
(35)第23章、利子と企業者利得
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481919865.html
(36)第24章、利子生み資本の形態での資本関係の外在化
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481918279.html
(37)第25章、信用と架空資本
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481916535.html
(38)第26章、貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481912535.html
(39)第27章、資本主義的生産における信用の役割
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481910630.html
(40)第28章、流通手段と資本 トゥクとフラートンとの見解
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481903863.html
(41)第29章、銀行資本の諸成分
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481901951.html
(42)第30章、貨幣資本と現実資本
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481896480.html
(43)第31章、貨幣資本と現実資本
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481882153.html
(44)第32章、貨幣資本と現実資本掘雰襪咫
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481879086.html
(45)第33章、信用制度のもとでの流通手段
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481876224.html
(46)第34章、通貨主義と1844年のイギリスの銀行法
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481869542.html
(47)第35章、貴金属と為替相場
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481867746.html
(48)第36章、資本主義以前(機法
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481865481.html
(49)第36章、資本主義以前(供法
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481858125.html
(50)第6篇超過利潤の地代への転化 第37章、緒論(1)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481838896.html
(51)第37章、緒論(2)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481836690.html
(52)第38章、差額地代 総論
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481834669.html
(53)第39章、差額地代気裡院
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481826398.html
(54)第39章、差額地代気裡
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12481824174.html
(55)第40章〜第44章、差額地代
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480185970.html
(56)第45章、絶対地代
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480182293.html
(57)第45章、絶対地代
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480179553.html
(58)「参考」宮川彰著『資本論』第2・3巻を読む(下)第45章絶対地代から
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480177722.html
(59)第46章、建築地代、鉱山地代、土地価格
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480173403.html
(60)第47章、資本主義的地代の生成 第一節 緒論
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479520102.html
(61)第47章、資本主義的地代の生成 第二節 労働地代
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479518309.html
(62)第3節 生産物地代
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479516012.html
(63)参考:「日本の場合」:労働地代と生産物地代が併存した。
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479514669.html
(64)第4節 貨幣地代
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479512521.html
(65)第5節 分益農制と農民的分割地所有
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12479510967.html
(66)第7篇 収入とその源泉 第48章 三位一体的定式 (断片、機↓供↓掘法
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478954217.html
(67)第48章 三位一体的定式(1) 
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478941040.html
(68)第48章 三位一体的定式 (2) (断片、機↓供法
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478939785.html
(69)第48章 三位一体的定式(3) 
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478937973.html
(70)第48章 三位一体的定式(4)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478935972.html
(71)第48章 三位一体的定式(5) 断片掘
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478930092.html
(72)第49章 生産過程の分析のために  淵泪襯スの経済表貼付)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478927316.html
(73)第49章 生産過程の分析のために
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478925807.html
(74)第50章 競争の外観
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478924630.html
(75)第50章 競争の外観◆
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478923411.html
(76)第7篇 収入とその源泉 
第51章 分配関係と生産関係 第52章 諸階級(マルクスの経済表貼付)
(資本論第3巻・了)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12478921230.html
 

マルクスの自筆「経済表」の解説

マルクスの自筆「経済表」日本語訳は自筆の下段を参照してください。
第一部門は生活手段、第二部門は機械と原料(生産手段)、第三部門は総再生産です。
総再生産過程の経済表は、生産物を巡る社会的諸階級の相互関係が一目瞭然と判ります。
マルクスが言うようにこの経済表は、「資本論」最後の章に総括として現れるもので、資本主義的生産様式をとる歴史的社会の鑑といえるものとです。銘記する所以です。(日本語訳は下段参照)イメージ 1
イメージ 2
これは前回のマルクス経済表の解説で「資本論について関する手紙」P129〜P134に翻訳があります。
ここでは、関本さんのブログから拝借しました。
以下、マルクスの経済表の解説でエンゲルスに宛てた手紙から抜粋です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(中略)
 同封の「経済表」は僕がケネの表の代わりに立てるものだが、もし君がこの暑さのなかでもできるなら、い
くらか念入りに見てくれたまえ。そして、なにか疑念があったら知らせてくれたまえ。これは総生産過程を包
括している。
 君も知るように、アダム・スミスは「自然価格」または「必要価格」を賃金と利潤(利子)と地代とから構成している− したがって全体を収入に解消させている。この不合理はリカードにも伝えられている。といっても、リカードは地代をたんに偶然的なものとしてカタログから除いてはいるのだが。ほとんどすべての経済学者がこれをスミスから受け継いでいる。そして、これに反対する経済学者らはまた別の不条理に陥っている。

 スミス自身も、社会にとっての総生産物をたんなる収入(年々消費されうるもの)に解消させることの不合
理は感じていて、他方で各個の生産部門については価格を(原料や機械など)と収入(労働、利潤、地代)と
に分解している。そうすると、社会は毎年新しく資本なしで始めなければならないことになるだろう。
 ところで、僕の表について言えば、これは僕の本の最後のうちの一章のなかに総括として載せるものだが、
そこでは理解のために次のことが必要だ。

 (1)数字はどうでもかまわない。何百万かを意味するものとしてもよい。

 (2)ここで生活手段というのは、消費財源の中に年々はいって行く(または、この表からは除外されてい
る蓄積がなければ消費財源のなかにはいりうるであろう)すべてのもののことだ。
 部類1(生活手段)では全生産物(七〇〇)が生活手段から成っており、したがって当然のこととして不変
資本(原料や機械やなど)のなかにははいっていかない。
同様に部類2では全生産物が、不変資本を形成する諸商品から、すなわち原料や機械としてふたたび再生産
過程にはいっていく諸商品から、成っている。
(3)上昇線は点線になっており、下降線は直線になっている。
(4)不変資本は、原料や機械から成っている資本部分だ。可変資本は、労働と交換される資本部分だ。
(5)たとえば農業などでは同じ生産物(たとえば小麦)の一部分は生産手段を形成するが、他の一部分(た
とえば小麦)はふたたびその現物形態のままで(たとえば種子として)原料として再生産にはいっていく。だ
が、これは少しも事柄を変えるものではない。というのは、このような生産部門は、一方の属性から見れは部
類2のなかに現われ、他方の属性から見れは部類1のなかに現われるからだ。
(6)そこで、全体の要点は次のようになる。
部類1。生活手段。労働材料と機械(すなわち機械のうち損耗分として年間生産物のなかにはいって行く部分。機械などの未消費部分は真のなかには全然現われていない)は例えば四〇〇ポンドに等しい。

労働と交換された可変資本=一〇〇は三〇〇として再生産される。というのは、労賃を生産物で補填し、二〇
○は剰余価値(不払剰余労働)を表わすからだ。生産物は七〇〇であって、そのうち四〇〇は不変資本の価値を表わしているが、この不変資本は全部が生産物のなかに移っており、したがって補填されなければならない。
 可変資本と剰余価値との割合がこのようになっている場合には、労働者は労働日の三分の一では自分のために労働し、三分の二では彼の天成の目上(natural speriors)のために労働する、ということが仮定されている。 つまり、一〇〇(可変資本)は、点線で示されているよぅに、労賃として貨幣で払い出される。労働者はこ
の一〇○をもって(下降線で示されているように)この部類の生産物すなわち生活手段を一〇〇だけを買う。
こうしてこの貨幣は資本家階級1に還流する。
 剰余価値二〇〇は一般的な形態では利潤だが、これは、産業利潤(商業利潤を含む)と、さらに、産業資本
家が貨幣で支払う利子と、彼がやはり貨幣で支払う地代とに分かれる。この産業利潤や利子や地代として支払われた貨幣はそれをもって部類1の生産物が買われることによって、還流する(下降線で示されている)。
こうして、部類1の内部で産業資本家によって投ぜられたすべての貨幣は、生産物七〇〇のうちの三〇〇が労働者や企業家や金持ちや地主によって消費されるあいだに、彼のもとに還流する。部類1に残っているのは、生産物の過剰分(生活手段での)四〇〇と不変資本の不足分四〇〇とだ。
 部類2。機械と原料。
この部類の全生産物は、生産物のうち不変資本を補填する部分だけではなく、労賃の等価と剰余価値とを表わす部分も、原料と機械とから成っているので、この部類の収入は、それ自身の生産物においてではなく、ただ部類1の生産物でのみ実現されることができる。しかし、ここでなされているように蓄積を除外すれは、部類
1が部類2から買うことができるのは、ただ部類1がその不変資本の補填のために必要とするだけの量であ
り、他方、部類2はその生産物のうちただ労賃と剰余価値と(収入)を表わす部分だけを部類1の生産物に投
ずることができる。こうして、部類2の労働者たちはその貨幣=一三三1/3を部類1の生産物に投ずる。
同じことは部類2の剰余価値でも行なわれる。これは、部類1におけると同様に、産業利潤と利子と地代とに分かれる。こうして、貨幣での四〇〇が部類2から部類1の産業資本家のもとに流れて行き、そのかわりに部類1はその生産物の残り=四〇〇を部類2に引き渡す。

 この貨幣四〇〇をもって、部類1はその不変資本=四〇〇の補填のために必要な物を部類2から買い、このようにして部類2には、労賃と消費(産業資本家自身や金持ちや地主の)に支出された貨幣がふたたび流れこんでいく。そこで、部類2にはその総生産物のうち五三三1/3が残っており、それをもって部類2はそれ自身の損耗した不変資本を補填する。
 一部分は部類1の内部で行なわれ一部分は部類1と2とのあいだで行なわれる運動は、同時に、どのように
して両部類のそれぞれの産業資本家たちのもとに、彼らがふたたび新たに労賃や利子や地代を支払うための貨幣が還流するか、ということを示している。
 部類3は総再生産を表わしている。
 部類2の総生産物はここでは全社会の不変資本として現われ、部類1の総生産物は、生産物のうちの、可
変資本(労賃の財源)および互いに剰余価値を分け合う諸階級の収入を補填する部分として、現われる。
 ケネの表をその下に置いておいた。これはこの次の手紙で簡単に説明しよう。
 失敬

                                   君の    K・M
 ついでに。エトガル・バウアーは職を得た − プロイセンの新聞局で。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
以上。
出所・経済表と解説:関本洋司氏の下記ブログ参照
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なお、ケネー経済表についての詳細は、平田清明氏の
「経済科学の創造」岩波をご覧ください。またWEB解説については、範式は
解説は下記をご参照ください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

『資本論』全3巻/はじめに第1・2巻の復習(マルクスの「経済表」参照)

(2)『資本論』全3巻を3年間で読み切る学習会(その2)レポート
今回は、第3巻第1篇第1章まで。はじめに第1・2巻の復習。
第1・2巻では、「産業資本」(生産過程と流通過程)を研究した。
下記範式は、資本(元入れ・前貸し)金で生産手段と労働力を購買し工場等で
労働者に働かせて、新たな商品価値(W’)を作り出す。それを流通において販売して
新価値(G’)を実現する。このときに実現されるΔGこそ剰余価値mである。
資本家はこのΔGを再度生産過程に投入すれば、今度はGではなくG’がはじめに立つ
ことになり、それが資本蓄積される。(拡大再生産)。もちろんこれを消費してしまえば
単純再生産となり、生産過程の価値規模は変わらない。
           / Pm(c)            (W’:剰余価値m(ΔG)を含む商品)
G−W    生産手段(不変資本)・・・P・・・W’−G’
           \ A(v)             (生産・労働) (G’:G+ΔG)
               労働力(可変資本)
※貨幣資本循環を表す定式 G−W・・・P・・・W’−G’は、社会的規模での賃金労働者
 階級の存在を前提する。資本主義的生産は、ただ商品と剰余価値とを生産するだけで
 はない。それは、賃金労働者の階級を再生産し、しかもますます拡大される規模でそれ
 を再生産し、そして直接生産者の巨大な多数を賃金労働者に転化する。 それゆえ、
 G−W・・・P・・・W’−G’は、その進行の第一前提が賃金労働者階級の恒常的な存在
 なのだから既に、生産資本の形態にある資本を、従って又生産資本の循環の形態を前提
 しているのである。(第2巻第一篇第一章:貨幣資本の循環、p59国民文庫版No.5)
ここで、各資本の循環について定式を掲げる。
(1)産業資本     / Pm
         G−W  ・・・・・・P・・・・・・W’−G’(G’=G+ΔG)
             \ A
(2)商業資本 G−W−G’(G’=G+ΔG)
(3)金融資本 G−G’   (G’=G+ΔG)
※資本の循環の定式において特に注意しなければならない事は、(1)の産業資本循環では、
 P(剰余価値の生産活動)が流通からは見えないが明確に存在(前提)している事が示されて
 いるのに対して、(2)の商業資本循環では生産の痕跡たるWのみが現れ、それ(生産活動P)が
 消えているという事、さらには、(3)の金融資本の循環になると、労働の痕跡(W)さえ無くなり
 純粋に貨幣資本のみが現れているという事、生産や労働という人間社会の本質的な社会的
 諸関係・意味がここでは全く消えてしまっているという事です。これは、ブルジョア社会が発展
 するにつれて、生産・労働に基づく古典的な資本循環から遊離して、バブル(金融恐慌)に見ら
 れるような不健全な、腐敗した、ギャンブル化した麻薬中毒患者のような利潤追求の狂気
 ともいえるグローバル資本主義の末期的な社会的諸関係が蔓延しやすくなる事を意味している。
 (2008年のリーマンショックから最近のユーロ危機(債務危機)を見よ。)
 また、(ナオミ・クラインのフリードマン批判の著「ショック・ドクトリン」参照。)

また、単純再生産とは、m(剰余価値)を資本家が資本投下しないで個人的に消費してしまう事
であり、
吃門(生産手段) c+v+m (=w商品) 局門(消費手段)c+v+m (=w商品)
のとき、機複+m)=供複磧が成り立つ。
さらに拡大再生産m(剰余価値)を資本家が再度資本投下する事によって、資本が蓄積
されるという事を意味しています。即ち、機v+m)>供複磧が成り立つ。
ここでは以下に出てくる重要で且つ必要な概念についてまとめておこう。
G:貨幣  W:商品  Pm:生産手段  A:労働力(労働者)
c:不変資本  v:可変資本       m:剰余価値(ΔG)
m’:剰余価値率:m/v(剰余価値/可変資本)
P:生産  C:総資本  k:費用価格(c+v)  p利潤  
p’:利潤率: m/C = m/(c+v)(剰余価値/前貸総資本)
なお、剰余価値とは、労働者(階級)が自己の階級維持に必要な労賃と引き替えに資本家
階級のために無償で作り出す価値。即ち(生活に必要な労働を超えた剰余労働(不払労働)
が対象化された価値で、資本の一般的定式である「貨幣G-商品W-貨幣G'(G+ΔG)」
における「ΔG」を指す)・・・この剰余価値概念の把握・理解が最も重要な課題です。
加藤講師は、第一巻、資本の(生産過程)を簡単に下記にまとめている。
                    /絶対的剰余価値の生産\
商品−貨幣−資本                             資本の蓄積と貧困化(の同時発生)
                  \相対的剰余価値の生産/     
※中心は剰余価値の生産であり、且つ資本主義の発生を歴史的に捉える事。
第2巻(流通過程)では、資本の循環・回転。
再生産論(過剰生産恐慌の考察への理論的前提)
なお、「資本主義的生産過程は、生産過程と流通過程の統一」という観点が極めて重要。
※下記ブルジョア社会を総(包)括的に表したマルクスの経済表(第一回ブログにも在中)
  を参照してください。。(※なお、和訳は下段を参照してください。)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イメージ 1
イメージ 2
※マルクス自身による「経済表」の解説は、下記ブログをご覧ください。

資本論全3巻の構成

資本論全3巻の構成 (出典は「資本論」を読む為の年表P5、ページ数は新日本新書判)
イメージ 1

トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」読後感想

前略
各位、如何お過ごしでしょうか。
最近、日が長くなり暖かさを感じます。
4月には、地方一斉選挙が始まり、また騒がしい日々が続きます。
そんな中、昨年12月に図書館にリクエストしていたトマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」を急いで読了しました。大まかには、前々回のメールで書評をもとに感想をメールしたものですが、改めて感想を述べてみます。

第一印象は、ピケティ氏が長期的なr>gの累積による極端化しつつある所得格差を、グローバルに調整された税制において改革する政策、即ち、相続税、贈与税、所得税、固定資産税を中心にした累進課税制度の大胆な見直しの提言だという事です。しかし、これはマルクスの「共産党宣言」では、既に、より本質的・革命的に掘り下げられているという点です。(前々回メール参照)
そこでは、次のように引用しました。
「・・・ここで私が思い出すのは、マルクスの「共産党宣言」です。曰く:「共産主義革命は、継承された所有諸関係との、最も根本的な断絶である。その発展行程において、継承された諸理念と、最も根本的に断絶することは、驚くにあたらない。・・・ 労働者革命の第一歩が、プロレタリアートを支配階級に高める事、民主主義を闘いとる事である。・・・従ってその諸方策は、経済的には不十分で不安定にみえるが、しかし運動の行程で自己を乗り越えて前進するものであり、そして、全生産様式の変革の手段として、不可欠のものである。最も進んだ国々に対しては次のような諸方策がかなり一般的に適用されうるであろう。

1,土地所有の廃止。2,強度の累進課税。(※)3,すべての相続権の廃止。・・・」
(水田 洋訳・講談社文庫p36〜p37)」と。
ピケティ氏が世襲資本主義に対して警鐘を鳴らしている点についても、マルクスは「3,すべての相続権の廃止」において既に対処している事です。
マルクスにおいては、資本主義的生産様式の本質的・体制的批判が主目的なのです。
そして又、「1,土地所有の廃止」については、誤解を防ぐ意味で、ブログでは、「資本論」第三巻から引用して下記のように補足しておきました。
「ここでは「1,土地所有の廃止」について、誤解を防ぐ意味で「資本論第3巻・第6篇・超過利潤の地代への転化・第46章建築地地代、鉱山地代、土地価格」からマルクスの考え方を紹介します。曰く:「一群の人々が社会の剰余労働の一部分を貢ぎ物としてわがものにし、しかも生産の発展につれて益々大きな度合いで我が物にする事を可能にするのは、ただこれらの人々が地球に対して持っている所有権でしかないという事は、次のような事情によって隠蔽される。(資本論p266)
 即ち、資本化された地代まさにこの貢ぎ物が資本化されたものが土地価格として現れ、従って又、土地が全ての他の取引物品と同様に売られる事ができるという事情によって、覆い隠されるのである。」「およそ権利を作りだしたものは生産関係である。この生産関係がある一点に達して脱皮せざるをえなくなれば、権利とそれに基づく一切の取引との物質的な源泉その経済的歴史的に正当化された源泉その社会的な生命生産の過程から発する源泉は、なくなってしまうより高度な経済的社会構成の立場から見れば、地球に対する個々人の私有は、丁度他の人間に対するある人間の私有のようにばかげたものとして現れるであろう。1つの社会全体でも、1つの国でも、実に全ての同時代の社会を一緒にしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである。(資本論p267〜p268)」
※「資本論第3巻・超過利潤の地代への転化」についてより詳細な解説があります。
下記のブログ(「資本論学習会」)をご覧ください。
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12480173403.html 」と。
ここでは特に、「土地所有者」と「土地の占有者・用益者」との概念的区別に注意
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また、ピケティ氏がいうところの、資本収益率即ち、利潤、配当、利子、地代その他資本所得の合計(=剰余価値)の資本の総価値(=前貸総資本)に対する割合(r)は、資本論では、m/(c+v)と表され、利潤率の事です。

ここで注意したいのは、rに関係した「平均利潤総額=剰余価値総額」という事とgに関係した、「年間産出高(諸生産価格)総額=諸商品価値の総計」という事です。
マルクス的には、これは、「総計一致の2命題」と呼ばれるものです。
(宮川彰氏著「『資本論』第2・3巻を読む下」p101〜102)
ピケティ氏の本書は、マルクスのこの「総計一致の2命題」(rとg)の間の関係を歴史的に分析して、r>gの不等式を発見し、それを基礎にして資本主義の現状と将来性について警告を発している点で非常に貴重であり重要です。(※)
(※r>gの不等式は、rが利潤(差=r’−r)率=(m/(c+v))であり、gが成長(差=W’−W)率=
(m/(c+v+m))である事を考えれば、マルクスのこの「総計一致の2命題」に基づいて合理的に理解できる筈です。ここで、w=c+v+m)

高田太久吉氏は、論文、「トマ・ピケティ『21世紀の資本論』を読む」(雑誌経済1月号p50)の中で、ピケティ氏の「r>gは、資本主義の歴史全体を通じて確認できる一般的事実であり、総じて言えば、資本収益率が4〜6%のレンジで推移してきたのに対して、成長率は1〜2%のレンジで変動してきた。この関係が引き起こす不平等の累積的な拡大こそが、資本主義の根本的な矛盾を表していると見ている。資本主義の歴史を通じてr>gの関係が持続している事実はピケティ氏の重要な発見であるが、・・・彼はこの結果を理論的には説明していない。」と。
他方、ピケティ氏においては、成長率は、新古典派の理論に依拠している。即ち、労働者1人当たり産出高増加率と労働者数の増加率の合計として把握されているがこの命題はそれらの増加率がどのようにして決定されるのかが説明されていない。」と。(経済p50)
我々は、マルクスの「資本論」全3巻をここで再度研究する必要があると考える次第です。何故ならば、資本主義的生産様式における「人口法則」までもが、そこでは問題の俎上に上せられているからです。

(特に資本論第1巻第23章資本主義的蓄積の一般的法則第3節の「相対的過剰人口又は産業予備軍の累進的生産」参照。又「総計一致の2命題」については、資本論第3巻第2篇利潤の平均利潤への転化 第9章平均利潤率の形成と商品価値の生産価格への転化・ブログ参照。)
https://ameblo.jp/kmham211/entry-12482634446.html
最後に、我々は、トマ・ピケティ氏の膨大な歴史資料に基づく分析を1つの契機にして、さらに資本主義社会の桎梏の現状、とりわけ地球共同体のあり方と現状分析へと理論的枠組を再構築して行かなければならないと考える次第です。
(特にピケティ氏がとっている分配論中心の議論は、資本主義の本質的な体制批判にはなっておらず、ましてや変革主体の歴史的役割は全く考慮されていない点で、与することはできません。)
その為の通路は、やはり汲めどもつきぬマルクスの『資本論』研究が最短コースだと思います。私的には、資本論第1巻の再読と剰余価値学説史研究は、4月の一斉地方選挙後に取り組みたいと考えています。  以上。
それではまた次回に。Your K.M
ps 皆さまの近況も是非お寄せください。よろしくお願いします。
(※)
補足として、「しんぶん赤旗」(2015.3.18)の”変貌する経済”アベノミクスГ砲いて、「弱まる財源調達機能」の中で、「所得税・法人税という所得課税の役割が低下し、消費課税の重みが増す」という実態を論じているので、マルクスの「国際暫定総評議会の代表者たちへの諸指示」(共産党宣言の付録)から、「7,直接課税と間接課税」についての提言を記録しておきます。 ここで、直接課税とは所得税・法人税が代表的であり、間接課税とは消費税が代表的な税であることは、言うまでもありません。マルクス曰く:
「7、直接課税と間接課税
(a)課税の形態をどんなに修正しても、労働と資本の関係に何らかの重要な変化を生み出すことはできない。(b)にもかかわらず、課税の2つの制度の間で選択をしなければならないとしたら、我々は、間接税の完全廃止と、直接税への全面的代替をすすめる。なぜなら、間接税は諸商品の価格を高めるからであり、・・・1個人が国家に支払っている額を、彼から隠蔽するものであるのに、直接税は剥き出しであり、・・・あらゆる個人を刺激して統治権力を規制しようと思わせ、
一方、間接税は自己統治への全ての傾向を破壊するからである。」
(「共産党宣言」の付録p172〜p173・講談社文庫。尚、注により本文を少し訂正しました。)

総資本支配階級はそれ故国家権力を動かして間接税たる消費税導入・増税と、直接税たる法人税や所得税の引き下げ及びそれらの累進制の破壊に、税制を通じて階級支配の強化に邁進してきたのである。戦後日本の税制変化をみよ!
(参考:「日本の税金」山城吾郎著・新日本新書1969年第6版)

関野秀明氏「マルクス経済学の基礎と貧困・自己責任論」紹介

月刊「経済」(新日本出版社)の2014・5月号に、関野秀明氏(下関市立大学准教授)が「マルクス経済学の基礎と貧困・自己責任論」を書いています。(p31〜p57)
第一部では、「資本論」の概要を的確にまとめ、第二部では、「資本論」を基礎に今日の貧困・格差問題を資本主義的生産様式に基礎づけて考察しています。「資本論」第一巻の概要を分かりやすく展開し、その基礎認識の上に立って、現代日本における貧困、格差、停滞の諸現象を見事に、本質的に解読・解説しています。ここに紹介する所以です。
まず、第一部の目次構成は、「第1部マルクス経済学入門 マルクスの剰余価値とは」です。「はじめに」では、まず、「2012年の完全失業者数は、285万人で、これが「20〜24才層」では8.1%でした。」これは就職氷河期と言われた1998年の完全失業者、279万人、「20〜24才層」失業率7.7%よりもさらに厳しい数字です。」(総務省「労働力調査」)。そして、就職難や失業、劣悪な労働条件、貧困が自己責任ではなく、経済社会の構造に基づく歴史的で客観的な法則であることを解明したのがマルクス「資本論」の経済学です。」と指摘している。
以下、関野氏に従って、この論考の概略を見出しを列記することで、紹介に代えたい。
詳細は、本文を精読することを是非ともお薦めする次第です。
『「資本論」の特徴
〇駛楴腟膳从僂領鮖謀研究であること
客観的で論理的な法則性の研究であること
H生論的・弁証法的方法
こ級性の重視
商品論1 商品の2要因と労働の二重性
1,なぜ「商品」分析から経済学をはじめるのか
2,商品の2要因 使用価値と価値
3,労働の二重性−具体的有用労働と抽象的人間労働
商品論2 価値形態または交換価値
1,価値形態または交換価値とは何か
2,価値形態の発展
 1簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態
  2全体的な、または展開された価値形態
 3一般的価値形態
 4貨幣形態
商品論3 商品の交換過程
1,交換過程論の目的と方法
2,交換過程の矛盾「使用価値と価値の矛盾」
3,貨幣の登場による「交換過程の矛盾」解決
4,貨幣のおもな機能
剰余価値論1 貨幣の資本への転化
1,資本の一般的定式
2,一般的定式の矛盾
3,労働力の売買
4,労働力商品「発見」の意義
剰余価値論2 絶対的剰余価値生産
1,資本主義的生産過程の分析 労働過程と価値形成・増殖過程
2,不変資本と可変資本
3,労働日 絶対的剰余価値生産
剰余価値論3 相対的剰余価値
1,絶対的剰余価値生産と相対的剰余価値生産の相違
2,本来的な相対的剰余価値
3,特別剰余価値生産と相対的剰余価値生産
資本蓄積論1 相対的過剰人口または産業予備軍の累進的生産
資本蓄積論2 資本の蓄積とそれに照応する貧困の蓄積
資本蓄積論3 資本主義的蓄積の歴史的傾向
\源瑳蠱覆慮朕妖所有と自己労働にもとづく「小経営」
◆崗経営」から資本主義への変革(自己労働にもとづく個人的所有の否定)
資本主義の発展(他人労働にもとづく資本主義的私的所有の発展)
ぁ峪駛楴腟租私的所有の弔鐘」
未来の「個人的所有の再建」(他人労働にもとづく私的所有の否定、「否定の否定」)
第一部のむすび
第二部 『資本論』を基礎に 貧困・格差を考える
1、現代日本の貧困 相対的過剰人口論から考える
2、現代日本の格差 「資本の蓄積に照応する貧困の蓄積」論から考える
3、現代日本の停滞 資本主義的蓄積の歴史的傾向論から考える
おわりに』(p57)

※ここでは、我々においても最後に、著者の感想を引用して締めくくりたいと思います。
曰く:「マルクスは労働力の商品化にあたり、資本家の【買った商品を自由に消費する権利】と労働者の【価値どおりに売る権利】という」権利対権利のアンチノミー(二律背反)は資本と賃労働の力関係−「総資本家即ち、資本家階級と、総労働者即ち、労働者階級とのあいだの一闘争」−により決すると述べています。現代日本の深刻な経済的停滞、社会的閉塞を打開できるのは働くもの、労働者階級の働きかけ、主体的な条件が必要です。
またマルクスは、資本が「相対的過剰人口の法則」を利用して労働者を分断して支配することは、避けられない運命ではなく、「労働組合などによって就業者と失業者とのあいだの計画的協力を組織」することでこの法則の「純粋な作用を攪乱する」ことができるとも述べています。
このマルクスの視点は、現代日本で貧困を無くすための社会保障の充実において、ワーキング・プア的就労で働く労働者と、自己責任論で苦しみ、この社会を変えたいと願う若者との連帯を激励する言葉として受け止める事ができます。」(p57)と。現代日本(世界)で深刻化している貧困、格差、停滞などが、資本論の基礎的概念を概略展開することによって、誰にも分かりやすく、納得的に解説している小論はあまり見かけない。敢えてここに紹介する所以です。以上。(K.M)